2011年5月2日月曜日

石原慎太郎 国家再生のために 国家覚醒の大きなきっかけ

MSN産経ニュース2011.5.2 03:25より
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110502/dst11050203260001-n1.htm

【日本よ】石原慎太郎 国家再生のために

 「日本よ!」、と天が呼びかける声が聞こえるような気がする。


私たちは今回の東日本大震災をどう受け止めるべきなのだろうか。


この出来事を国家覚醒の大きなきっかけとして捉えなければ、この未曽有の犠牲が報いられることはあり得まい。


 私は被災地への東京としての協力のために二度東北へ赴いたが、自分の足で踏みこんで眺めた被災現地の状況はまさに地獄絵だった。かつて講演のために訪れたこともある気仙沼の港町は、果てしなくつづく瓦礫の中に炎上した重油の残滓と死臭のただよう、天変地異のもたらした異形の世界に変わりはてていた。


 遠洋漁業のための数百トンの巨きな漁船たちは津波に乗って町を襲い、建物をなぎ倒して町並みの奥に転覆していた。私が出会ったある水産加工業者は、自分の家と工場のある建物に向かって突っ込んできた巨大な漁船が、間一髪家からそれて、斜め後ろのさらに大きな建物を一瞬にしてなぎ倒して過ぎるのを建物の屋上から固唾をのんで見守った恐怖を語っていたが、何に例えようもない光景だったろう。それは彼だけではなく被災したすべての人々がそれぞれ味わわされたことに違いない。


 加えてこの国の経済産業を支えてきた原子力発電が、その存在意義の是非についての危うさに晒されている。佐伯啓思氏が本紙に記していたが、


この日本に二つの原爆を投下し瞬時にして数十万もの非戦闘員を殺戮(さつりく)したアメリカが開発した軽水炉を拝受してきた日本が、


それのもたらすエネルギーに依って経済発展もとげ、アメリカ的価値、例えば彼等が主唱する市場原理主義をも疑うことなく取り入れ、


それによる収奪に甘んじてきたこの国を突然災害が襲い、従来の衰運に拍車をかけようとしているという、苦い構造。


 享受してきた平和と安寧なるものが危機に晒されている今、被った被害の復元に努めるだけではなしに、


私たちはもっと根源的なものへの反省と修復を志すべき時に至ったのではなかろうか。


それは国家存立のために絶対必要な国防という要因に関する安易な他力本願や、そのすり替えに享受してきた薄っぺらな繁栄、


そしてそれを促進してやまない我欲、物欲、金銭欲、性欲の氾濫と、


それにおもねり続けてきた政治の安易なポピュリズムを淘汰(とうた)する決心をしなければ、この国の真の復興、復活などありはしまい。


 自分を産み育ててくれた父親の弔いもせずに三十年も放置してミイラ化させ、その年金を詐取してはばからなかった家族なるものはこの日本以外には存在し得ぬ人種に違いない。


多くの日本人の芯における堕落をこれほど象徴した事例を私は知らない。


 あの事件が発覚した前後にテレビで見たアフリカ象に関する番組では一族の長老の死に臨んで一頭々々子象までが長い鼻で死骸に触れて別れを告げる象たちの姿が映しだされていたが、畜生ですら行う親族への弔いもせずに放置する者たちに人間としてのいかなる資格があるというのだろうか。


今回の大災害からの復興には現地の被災者たちだけではとてもかなわぬ、国民全体での協力が不可欠に違いない。


それは端的に、国民一人々々が自らの我欲をこらえて節制することだ。


それによって国民の誰しもが人生の中での堪え性、耐性をとりもどし、ひいては国家そのものが耐性をとりもどし、国家としての品格と存在感を示すことが出来るようになるはずだ。


 原発の事故は当然節電を強いることになるだろうが、従来我々が享受してきた生活の中で実は不要な電力の消費は多々あるはずだ。たとえば町中に乱立している自動販売機の消費電力は二十六万キロワットと膨大なものだし、


日中からにぎわっているパチンコ店の消費電力も八十四万キロワット
と、
合わせれば百万キロワットを上回る電力は福島第1原発1号機の二基分以上だ。


自販機協会の幹部はテレビで、我々は電力を消費はしているが浪費はしていないと嘯(うそぶ)いていたが、業界そのものの存在意義がとわれているのに、治安の良さもあってだろうが、町中いたるところに自動販売機が乱立している国など世界のどこにもありはしない。


 自動販売機からの清涼飲料水の供給は他に代えられるし、パチンコの営業は電力消費のピーク時から変えて深夜にでもしたらいい。


ちなみに在日韓国人に経営者の多いパチンコ業界が母国の韓国にこのゲームを持ちこんだら、韓国の当局はこれが流行すると国力の低下に繋(つな)がりかねぬと、かの地では禁止してしまった。


 国家の産業、経済は複合的に運営されるもので、業種の社会全体にとっての優劣は自ずとあり得よう。有事の際それを裁断するのが政府であって、かつてオイルショックの際行われた国民の消費への政令による具体的な指導を、今の政権がなぜ行わないのか理解に苦しむ。


ただ電力消費の何十パーセント削減などという抽象的な指導でことは動きはしない。


我々が今までなじんで来た生活の様式を、反省とともに具体的に変えていくことこそが、今この事態から国を救い立ち直らせていくよすがになるはずなのだ。


国家の最高権威たる政府が歴史的自覚の上に、明確、具体的な政令を発してことに当たるべきなのだが、一体何に遠慮しているのだろうか。政府による正当な権限の行使は決して専制でありはしない。強い指導力の表示があってこそ国民は安心してそれに従うのだ。


 天は今、国家再生のためにこの民族が甘えを捨て、己を抑制することで従来の資質を発揮することを命じているのだと思う。


被災した現地で、刻苦しながら立ち上がろうとしている同胞の姿こそがその範を示してくれているではないか。





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