2011年1月20日木曜日

誇りにしたい日本人!テレビの父高柳健次郎から戦前の教育のすばらしさが見えた

 高柳健次郎は、1899年(明治32年)1月20日の今日に静岡県浜松市生まれた
世界のテレビ開発の黎明期にあって、当時は機械式映像装置が主流であった中、ブラウン管による電子式映像装置にこだわって大正15年(1926年)12月、世界で初めてブラウン管による電子式受像に成功し、「テレビの父」として歴史にその名を残しました。以来日本におけるテレビ放送の実用化に大きく貢献しました。


 私が感銘を受けたのは、研究開発の基本が子供の頃に受けた教育にあり「世のため人のために」という戦前の日本人が受けた公の心を育てる所にある。


 今の民主党の支持母体である日教組は、戦前までの世界が学んだ日本の教育を破壊する事が目的である。
高柳健次郎が受けた教育を知れば、日教組を無くすことが日本および世界のためになることを改めて認識した。
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http://www.jvc-victor.co.jp/company/technology/human/index.htmlより

日本ビクター(株)の元副社長、技術最高顧問などを歴任した故高柳健次郎は、大正15年(1926年)12月、世界で初めてブラウン管による電子式受像に成功し、「テレビの父」として歴史にその名を残しました。以来日本におけるテレビ放送の実用化に大きく貢献したほか、戦後日本ビクター(株)入社後は技術部門の指導者としてカラーテレビの技術革新、ステレオやVTRの開発等、数多くの業績を残したことはもとより、企業の枠を超えた日本の電子産業の発展と、それを担うべき人材の育成に尽力しました。

高柳の功績と教訓
1.研究は世の中のため、人の幸せのために


・高柳の発想の原点は、いつも「将来のためになるか、世の中のために役に立つか、人々の幸せにつながるか」であった。


・方法は、「何のために」 が先ずあり、すべてのエネルギーをその目標に向けて注ぎ込むやり方である。


・技術者が陥りがちな、技術開発それ自体を自己目的化したり、いたずらに他とスペックを競い合う不毛な先陣争いには目もくれなかった。
まして自分の利益や名声はまったく眼中になかった。
浜松高工でのテレビの研究開発では、自分のアイデアを惜しげもなくチーム研究に注ぎ込んだ。



「テレビという、将来必ずや人々に幸せをもたらすであろう夢の機械を創り出す」 この明確なターゲットが、高柳とそのチームのメンバーの気持ちを一つにした。


(感想:公(おおやけ)の心「世のため人のために」という日本人の原点がここにある。
中村天風哲人が言うところの、「人は何のために生まれてくるのか」の命題に対し、
「宇宙の進化向上発展にある」とする精神が日本人の心の根幹にあり、
その教育が戦前の日本の教育の中にあった。)






・戦後、日本ビクターに入社後まもなく結成された「テレビジョン同好会」も、高柳が「テレビの技術を伸ばしていくためには、どうしても技術者が集まってお互いに研鑚に努めなければいけない」と、郵政省、学校、企業、NHKなどの研究機関にいるテレビ研究者に声をかけ30人位でスタートしたのだった。企業の枠を超えて、毎月1回会合を開き、情報交換して互いに切磋琢磨した。


・このグループは4年後(昭和25)には(社)日本テレビジョン学会に発展・改組され、またS.27年ころ、テレビの普及促進のために標準型の受像機を作ろうと、業界が一致できたのも、この「同好会」以来の共通の基盤があったからだった。
理想を掲げ、その旗の下で産業発展に尽くすという姿勢は、VHSの開発と世界を舞台とする新しい映像文化の創造に命をかけた“ミスターVHS”のニックネームを持つ高野鎭雄氏に受け継がれ、花開いた。


・高柳の思想が、昨今の情報機器やディスクメディア等の分野での、「我こそは最高スピード」「ウチのが最大容量」云々の先陣争い、その結果としての短命な技術ライフサイクルなど、ともすればユーザー不在、目標不鮮明となりがちな技術開発競争の現状に、改めて警鐘を鳴らしているのではないだろうか。


2.「個の成長と、全体の成果」の両方を実現するプロジェクトチーム


・1930年(昭和 5)の「天覧※1」を機会に、浜松高工の高柳研究室は公式にテレビジョン研究施設に昇格、予算、人員などが増強され、念願の「チームによる研究」が可能になった。1934年(昭和9)の欧米視察以後1年余りをかけて撮像管を完成させたのは、テーマを絞り込んで共同研究に取り組んだ「高柳式プロジェクトチーム」の成果だった。
高柳は著書『テレビ事始』のなかで、当時のことを次のように回顧している。


※1.天覧:1930年(昭和 5)5月、天皇陛下の静岡来訪時に、直径30センチのブラウン管によるテレビジョン実験天覧。これを機会に教授に昇格、「テレビジョン研究施設」としての予算計上、大勢の研究員を職員として認められるなど、急転の体制強化が実現。



「私たちは一週間おきに研究会議を開いて報告し、お互いに報告について遠慮なく意見を述べあい、次の段階へ向かって激励しあった。一人は信号板の光電微粒子の製法について画期的な発明をしてくれたし、またある者は、信号版を撮像管の中に封入するよい方法を考え出すなど、誰もがみな適切な改良を行った。


私は一生を通じて、これほど充実した研究生活を送った時期はないと思う実際的な成果も大きかったが、多くの人たちと心を一つにして、しかも一人一人の能力を最大限に発揮するという雰囲気がおのずと作られていった、そのこと自体が貴重なことだったからである。」


・高柳の「全員が成長できるチーム研究」の方法は、


「学者であれ発明家であれ、その人だけが卓越した知識を持ち、独占し、弟子たちはまったくの補助協力者として扱われて、重要なことは何ら教えられず、弟子自身が生み出した成果さえ先生のものとされてしまうといいう時代」(同書)にあって画期的であったというにとどまらない。


・現代の大学や企業の研究開発プロジェクトチームにありがちな、個々のメンバーを手駒として集め、研究システムの歯車や部品のように構成してテーマを追い込んでいく最近のやり方にも、是非を問うものと言えそうである。


3.自らの体験に報い、教育・人材育成に献身


・高柳は、子どもの頃劣等生だった自分が担任の先生から、


「やればできる」ことを教わり勇気づけられたこと、大学の恩師に「目先にとらわれず、遠い先を見て将来の世の中に役立つ人間になれ」


とアドバイスされたことを生涯の指針とした。


・自分の能力を生かすことができ、社会への貢献が第一という思想も、自分が受けた教えから形成されたと信じ、教育の偉大さを痛感していた。


(感想:戦前の日本の教育のすばらしさを実感!日清日露戦争後、日本人の素晴らしい資質を知り、教育方法や教育勅語を世界120カ国以上が教育の手本とした。GHQは、教育勅語を禁止し、アメリカと連合国にとって都合の悪い歴史を消し去り((昭和3年から昭和20年までに発刊された書籍の中で約8000冊を消し去った))、そして勝利したアメリカと連合軍が善で負けた日本が悪とする捏造した歴史を日本人に教育した。戦前の日本の教育の根幹を破壊するという暴挙をアメリカは日本人に対し行った罪は許されざる事である。それを引き継いで現在もとんでもない教育を行っている民主党の支持母体である日教組は、日本人本来の資質を破壊する組織である。 参考;「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著)


・プロジェクトチーム研究での、皆がやりがいを持って参加でき、その過程で一人一人が力を伸ばすことができることを重視した指導法も、人を育てることへの意欲の現れだった。


・日本ビクターでの功績も、カラーテレビの大幅改良はもとより、世界の標準ステレオ方式となった「45-45方式」や、4チャンネル「CD-4」システムなどオーディオ分野の技術開発、VTRの基礎技術から「VHS」開発へと、研究開発部門のリーダーとしてプロジェクトチームを指揮、人材の育成と事業化を先導した。日本ビクターが、世界市場が認めるオリジナル志向の技術開発型企業へと発展してきたのには、この高柳の貢献に負うところ大である。


《高柳の研究開発指導方針》

1)先見性:10年先・20年先の求められるテーマを見定める先見性を持て。
2)ひたむきに:目標を定めたら、亀のように粘り強く、休むことなくひたむきに努力せよ。
3)集団討議 :一人の天才によって科学技が進歩する時代は終わった。集団討議によるステップ・バイ・ステップの研究にこそ大きな成果が期待できる。
4)皆で一緒に向上:研究成果は個人のレベルに止めず知らせ合い、皆で一緒に向上しよう。
5)専門外にも取組め:自分の課題に関わることは専門外のことであっても自分で取り組んでみる姿勢を持て。複合化の時代には関連分野についての知識が大切になり、自分の専門分野の研究を進めるためにも有効だ。
6)創意・自主性尊重:個人の創意や自主性を大切にせよ。研究に立場の上下はない。若い研究者の自発的な意思で研究を進めた方が、必ず大きい成果を得られる。



・高柳の後進育成への熱意は、浜松電子工学奨励会、(財)高柳記念電子科学技術振興財団といった、私財を基金とした研究助成のほか、(社)日本テレビジョン学会、日本ビクター技術報告大会での「高柳賞」制度として今も受け継がれている。(上記すべての会、団体に「高柳賞」がある。)


・高柳記念財団設立では、「現在は世間に認められていなくても、将来を目指して頑張っている芽をつぶさないで、応援したい」という高柳の発案で研究助成のプログラムが作られた。
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参考:経歴
http://www.jvc-victor.co.jp/company/technology/human/ashiato.htmlより
・1899年(明治 32)1月20日、静岡県浜松市生まれ。
・幼い頃の「無線」との出会い
幼少時は、体が弱く勉強も苦手だったが、機械に興味を持ち、模型づくりに熱中。
小学3年生の頃、学校に海軍の水兵がやってきて見せてくれたモールス信号のデモに感銘。13歳の頃に起こったタイタニック号沈没事件では、米国の一無線技師サーノフ(後のRCA社長)がこの惨事を無線でキャッチし、これを全世界に無線で伝えたことを新聞記事で知る。その後の高柳健次郎と「無線」との結びつきの始まりだった。

・「コツコツ努力」の大切さ知る
高等小学校の恩師の指導で、「どんなに難しい問題でも懸命に考え、コツコツ努力すればわかる」ことに気づき、学ぶ喜びを知る。
恩師のようにと教員への道を志し、浜松準教員養成所(1年)、静岡師範学校(4年)を修了するが、さらに物理学研究への志望がつのる
1918年(大正 7)東京高等工業学校(現東京工業大学)入学

・「10年先・20年先を目指せ」の教え
卒業間近、同校電気科長の中村幸之助教授(後初代東京工業大学学長)訓話に激励される。
「お前たちには将来、国家のお役に立つような人間になってほしいが、今流行っていることをやりたがってはだめだ。将来の日本になくてはならないものを見出し、今からコツコツ積み上げて勉強しなさい。そうすれば石の上にも3年、いや10年・20年同じことをやれば、必ずひとかどの技術者になれる。ちょうどその時に世の中のお役に立てるのだ。」

1921年(大正 10)同校卒業

神奈川県立工業学校 教諭

・「無線遠視法」の着想
1923年(大正 12)年初の頃、「有線の電話で声が伝わるのならば、顔や姿も伝わって見えるようになるのではないか。いや、ラジオ放送が遠くから無線で声を送れるのならば、映像だって無線でやれる理屈ではないか」と考え、これに「無線遠視法」と名づける。

*この年、米国ではサーノフがテレビ放送時代を予測。別の所ではツヴォルィキン博士が高柳と同じ電子方式のテレビ研究を開始。

*9月1日、浜松に帰省中、関東大震災。

1924年(大正 13)浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)助教授

・本格的にテレビの研究を開始。

当時研究が始まっていた機械式でなく、電子式によるテレビ開発に目標を決める。受像機に、当時物理の測定器に使われていたブラウン管の利用を思いつく。 1925年(大正14)3月、日本でラジオ放送開始。

「イ」の字のブラウン管受像に成功
1926年(大正 15)12月25日、ブラウン管による電送・受像に初めて成功。送像側にニポー円盤(機械式)、受像側にブラウン管(電子式)を用い、「イ」の字を送受像。

*この日、大正天皇が崩御、昭和が始まる

・先行する機械式にも電子式への自信揺るがず
1928年(昭和 3)5月、東京で動く被写体の受像実験をデモンストレーション。 (当時、テレビ研究の世界的な主流は機械式で、国内外で高柳の実験よりきれいな画像を映せるところまで来ていたが、高柳は将来は電子式だけが成功すると力説、研究を続ける。)

・天覧
1930年(昭和 5)5月、天皇陛下の静岡来訪時に、直径30センチのブラウン管によるテレビジョン実験天覧。これを機会に教授に昇格、「テレビジョン研究施設」としての予算計上、大勢の研究員を職員として認められるなど、急転の体制強化が実現。

12月、テレビ撮像管発明。

1932年(昭和 7)浜松市で走査線100本の画像の研究用実験放送。郊外で受信に成功。

・「チーム研究」で初の全電子式テレビを完成
1935年(昭和 10)11月、浜松高工式アイコノスコープによる撮像管とブラウン管を用いた、走査線220本の全電子式テレビジョン完成。「このアイコノスコープの共同研究は、わが国の産業技術の研究開発史上おそらく最初の、短期間に実質的な成果につながったプロジェクトチームと言ってよいのではないかと思う」(高柳)。

・東京五輪のテレビ中継目指し、NHK入り
1937年(昭和 12)8月、NHK技術研究所(東京・砧)にテレビジョン部長として出向。目的は、昭和15年の開催が決まった東京オリンピックのテレビ中継放送を準備すること。

浜松高工の研究員20名を引き連れ、他に加わった技術者や新採用の人員等総勢190人余のスタッフが集まる。

(翌年7月、日中全面戦争突入など国際情勢緊迫で、東京オリンピック開催返上決定。テレビ本放送計画も取り止めに。)

・「人工天才」
*この頃、米国のある文献に載っていた「人工天才」という論文を読み、感銘を受ける。そこには、「昔は1人2人の天才によってのみ、ゆっくりと進めることしかできなかった独創的な研究や開発が、これからは技術者がチームをつくり協力して仕事を行うことにより、早いスピードで可能になる」という予見と提言が記されており、高柳はこれ以後「その主旨を体して仕事を行って参りました」(昭和 47年の社内の若手技術者に向けた資料冒頭の紹介のことば)という。

1939年(昭和 14)5月、NHK砧技研の高さ100mの鉄塔から東京一円に電波を飛ばす、日本初のテレビジョン公開実験。



戦時体制下、海軍技師に徴用
(1941/昭和 16年12月、太平洋戦争勃発。テレビ研究禁命令。海軍技師としてレーダーや電波兵器の研究に徴用される。)
(1945/昭和 20年8月、終戦。NHKに戻ってテレビの研究を再開。海軍で一緒に研究をしていた青年士官のうち30数人のNHKへの採用を決めていたところ、GHQから一切の研究禁止、軍部の仕事に従事していた者の公共事業への就職禁止を通告される。)

・日本ビクターへ
1946年(昭和 21)7月、技術者20数人とともに日本ビクターに入社、ビクターにいた10人ほどのテレビ研究者と合流。
テレビジョン研究部長として、直ちに研究を再開。
8月、「テレビジョン同好会」(昭和 25年(社)日本テレビジョン学会に発展・改組)を創設、会長。
1949年(昭和 24)日本電子機械工業会(EIAJ)テレビジョン技術委員長としてのGHQに対する執拗な説得が奏効して、試験研究用の電波(NHKとメーカー共同使用の1チャンネル)使用許可を獲得。

1950年(昭和 25)7月、日本ビクター 取締役技師長就任

11月、NHKテレビ定時実験放送開始

1951年(昭和 26)通産省工業生産技術審議会委員就任

1952年(昭和 27)NHK放送文化賞受賞

・不本意だった6メガ・7メガ論争の決着
1952年(昭和 27)日本のテレビ放送標準方式の検討で、カラー化を視野に入れた周波数7メガヘルツ幅の採用を主張(NHK、EIAJの関係者間で合意)。

しかし郵政省・電波監理委員会は、アメリカが先行採用している6メガヘルツ案準拠を主張、結局、アメリカ技術が優秀との先入観と早期事業化への便宜を優先した「6メガ派」が押し切る形で、走査線525本のアメリカ方式が採用となる。

* 「あまりに近視眼的な決定」と残念がる。白黒テレビ時代が始まろうという時点で、将来のカラー化、高精細画像化までをも視野に入れた標準化を提案していたのだった。 後々まで、現行のNTSC方式について「今でも、ひどくなまったテレビ画面を見るたびに、もしそのとき7メガヘルツを採用していれば…と残念に思う」といった発言が見られる。

1953年(昭和 28)2月、NHKテレビ本放送開始。8月、日本テレビ(初の民放)放送開始。

3月、日本ビクター 常務取締役就任

1955年(昭和 30)4月、紫綬褒章受章

郵政省電波技術審議会委員就任

1956年(昭和 31)9月、「45-45方式」ステレオ技術開発(世界初)

1956年(昭和 31)12月、NHKカラーテレビ実験放送開始

・日本のカラーテレビを世界最高水準に
昭和30年代を通じて、カラーテレビ改良に尽くす。日本のカラーテレビを世界最高水準のレベルに高め、代表的輸出商品としての急成長に貢献。

・ポストカラーテレビ、VTRを開発
1959年(昭和 34)2ヘッドVTR開発(世界初)。ここでもプロジェクトチーム方式が結実。

1960年(昭和 35)放送用2ヘッドカラーVTR開発

1961年(昭和 36)5月、国際無線通信連合(ITU)第1回世界TV祭(スイス・モントルー)で、RCA のサーノフ氏とともに功労者表彰を受ける。
このとき、会場で2ヘッドVTRを展示・説明し、好評を得る。

11月、日本ビクター 専務取締役就任(昭和 37/11.代表取締役専務)

1963年(昭和 38)4月、世界最小VTR「KV200」開発

1965年(昭和 40)5月、(社)電子通信学会(現(社)電子情報通信学会)名誉員就任 1969年(昭和 44)4月、勲三等瑞宝賞受章

1970年(昭和 45)9月、4チャンネルステレオ「CD-4」開発

11月、日本ビクター 代表取締役副社長就任

1973年(昭和 48)11月、日本ビクター 技術最高顧問就任

1974年(昭和 49)2月、科学放送振興協会理事長就任

11月、勲二等瑞宝賞受章

1976年(昭和 51)日本ビクター、VHSビデオ開発。10月、第1号機「HR-3300」発売。

高柳の薫陶を受けた髙野鎭雄氏(当時ビデオ事業部長)が「一企業の利益追求でなく、世界にビデオ文化を花開かせるのだ」という強い信念に発したリーダーシップを発揮、VHSの普及戦略を展開。

1980年(昭和 55)11月、文化功労者表彰受賞

1981年(昭和 56)11月、文化勲章受章

1984年(昭和 59)10月、高柳記念電子科学技術振興財団設立。理事長就任。

1987年(昭和 62)7月、米国アラバマ州立大学名誉教授 浜松市名誉市民

1988年(昭和 63)10月、米国映画テレビ技術者協会(SMPTE)名誉会員に日本人初の推挙。

11月、静岡大学名誉博士。

1989年(平成 元)4月、勲一等瑞宝賞受章

1990年(平成 2)7月23日、死去(享年91歳)。


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